枝を伸ばし樹勢はすこぶる旺盛で盛んな生長を続けている


大日寺の大杉


■高知県越知町の一本杉
田園地帯にすっと立つ一本杉、その根元には碑があり、説明板があります。そこには次のように書かれています。
宝永南海地震 (1707) による仁淀川中流の天然ダムの被災碑
1 はじめに
宝永四年十月四日 (1707年10月28日) の宝永南海地震 (マグニチュード8.6) では、高知県高岡郡越知町鎌井田の舞ケ鼻地先において発生した大規模な崩落が仁淀川をせき止め、天然ダムが形成された。本石碑き、このことを後世に伝えるため、建立されたものです。越智町の柴尾、佐川町の場所ケ内地区の石碑の風雨にさらされ、読みにくくなっていたため、宝永南海地震土砂災害記念石碑保存会では、石碑を読みやすくするため、洗浄を行い、ペンキで文字を読みやすくしました。
2宝永南海地震による土砂災害
宝永南海地震ては、激甚な津波災害が発生したことが知られていますが、土砂災害はあまり知られていません。高知県立図書館 (2005) の「谷陵記」 (奥宮正明記) によれば、「宝永四丁亥刻十月四日末之上刻 (1707年10月28日) 、大地震起り、山穿 (うがち) て、水漲 (はり) し、川を埋りて、丘となる。國中の官舎民屋悉 (ことごと) 轉倒す。迯 (にげ) んとするども、眩 (めくるめい) て、おとしに打たれ、或は頓絶の者多し、又は幽岑寒谷の民は巌石の為に死傷するもの若干也」と、天然ダムが形成されたことが記されていますが、具体的な場所はわかりませんでした。
3 仁淀川の天然ダム形成地点の状況
越知町 (1984) の「越智町史」巻末の越智町史年表によれば、1707年の項に「大地震で舞ケ鼻崩壊し、仁淀川を堰き止め洪水ほ起こす」と記されています。仁淀川の対岸には角張った巨礫が堆積しており、このような大転石の密集地は他に存在しません。この天然ダムは、高さ18m、水が溜まった面積480平方キロメートル、溜まった量は2880万立方と想定されています。
仁淀川は越智盆地からこの流域に入ると、急峻な谷となり、湾曲しながら流れてます。天然ダムの形成地点は地すべりや崩壊の跡が残る地形です。現在でも対岸台地に巨礫が厚く堆積しています。舟で対岸の台地に渡ると、イノシシの棲かとなってり、多くの足跡があります。戦前の台地は現在よりも高く、多くの岩魂が残っていて、上流の越智盆地がしばしば氾濫する一因となっていました。このため、昭和21−22年 (1946−47) に地域の人達は、多くの岩魂を撤去して、川の断面わ拡幅する工事を施工しました。
4 氾濫範囲を示す石碑
上流の越智盆地には、同じ標高61mの6カ所に天然ダムの湛水範囲を示した石碑があります (今成のみ紛失) 。越智町女川の石碑だけは、阿弥陀堂の中にあり、「南無大師扁照金剛 宝暦七 尾名川村惣中」と読むことができます。仁淀川と支流の桐見川と柳瀬川の洪水流が合流して、北方向の狭窄部に流入するため、越智盆地は平成16年 (2004) 、平成17年 (2005) など、何回も激甚の洪水・湛水被害を受けてきました。これらの洪水時の水位は標高61m付近であるため,地元では「石碑より下に家を建てるな」という言い伝えが残っています。私達有志は湛水を示す石碑を大切に保存し、言い伝えを含めて「貴重な防災教訓」として残したいと思います・
参考文献 井上公夫 桜井亘 (2009) 宝永南海地震 (1707) で形成された仁淀川中流 (高知県越智町) の天然ダム、砂防と治水、187号、71−75ページ
むすび
本説明看板の作成に当たっては、東京大学地震研究所 都司嘉宣准教授のご指導を受けました。また、財団法人砂防フロンティア整備推進機構の「木村基金」の助成を受け、修補しました。宝永南海地震土砂災害記念石碑保存会 平成23年10月 吉日
と書かれた説明板が一本杉の根元に設置されています。



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