■江戸期はりまや橋の由来 藩政時代、堀で隔てられていた豪商播磨屋 (はりまや) と、豪商櫃屋 (ひつや) が互いに往来のために架けた私橋が、後に「はりまや橋」と呼ばれるようになりました。当時は、簡素な木造りの橋でした。 橋は、時代とともに幾度か架けかえれた、昭和33年には南国博覧会のため、朱色の欄干が登場します。翌年、歌謡曲「南国土佐を後にして」がヒットしたことで、同名の映画が創られ、スクリーンに映し出された朱色の欄干が「はりまや橋」として、全国に知られるようになりました。 ここに架かる橋は、平成5年、全国から寄せられた680件の「はりまや橋に対する整備のイメージ」を基に、江戸時のはりまや橋として再現したものでい。と碑に刻まれています。 また、別の説明板には 土佐の高地のはりまや橋で、坊さん、かんざし買うを見た、のよさこい節で有名。 「はりまや橋」は、江戸時代初期、堀川を挟んで商いを営んでいた播磨屋と櫃屋がお互い行き来するために架けた私設の橋が始まりとされています。周囲の賑わいとともに、のちに公共の橋となり、橋の上には十九文屋と呼ばれる小店などが並んでいました。五台山竹林寺の坊さかんが思いわかけた人のためにかんざしを買ったのは、橋の南詰東側にあった「橘屋」という小間物問屋であたったと言われています。 戦後に埋め立てられた堀川は、平成10年のはりまや橋公園の改修にあわせて再現され、江戸時代のはりまや橋を再現した朱色の欄干の太鼓橋が架けにれました。そりに加え、明治期に実際に変われていたものを再利用した鋳鉄製の橋、自然石で造られた欄干を持つ昭和25年 (1950) に架橋された現在の橋と合わせ、ここには時代とともに移り変わった3本の橋が仲良く並んでいます。こうして、堀川はウッドデッキ沿いに四季折々の花が咲く、親しみやすい水辺に生まれ変わりました。 付近の商店街には全国的も珍しい木造アーケードがあり、公園と一体となったイベントも開催されているなど、商店街を中心に周辺一帯を含めた街づくりも楽しめます。 公園の南側に位置するはりまや橋交差点では、花壇などの整備により、四季を彩る鮮やかな草花が街にうるおいをもたらしてくれます。観光の途中にひとやすみしたり、待ち合わせをするのに、よく利用されています。また、はりまや橋東側のビルの壁にからくり時計が設けられており、9時から21時の間の各正時によさこい節に合わせてからくりが繰り広げられます。 (天候等により、休止する場合があります。) と書かれた説明板もあります。
|