■中平善之進 中平善之進名は穏敦 (やすあき) 、幼名を鴨之助という。宝永6年 (1709) 北川庄屋上岡吉左衛門次正の長男として生まれる。 幼くして利発、享保8年 (1723) 6月、15歳にして北川大庄屋代勤を聞届けられた。元文3年 (1738) 郡方の勧めで梼原村大庄屋中平弥左衛門の養子となった。藩においては財政建直しのため宝暦2年 (1752) 国産方役所をおき、国産品を指定し問屋を定めてその利益を吸収する制度をとった。 津野山方面の御用商人は蔵屋利左衛門で、彼はその専売権を利用して買いたたいていたので農民は窮乏して来た。善之進は数度津野山九ケ村の庄屋を招集して協議し藩庁に対策を訴えた。 藩はこれを握りつぶして何らの対策を立てないのみか、その願いを不当として弾圧をさえ加えかねない有様で、農民等は怒って「蔵屋を殺そう」と騒ぎ始めた。善之進はそれを押し鎮め、自ら藩庁に出頭しこの窮状を訴えよとしたが、芳生野村庄屋が藩庁に密告したので、足軽一隊が派遣され主だった者を召捕り入牢せしめた。時に宝暦5年 (1755) これを「津野山騒動」と呼んでいる。 善之進は牢獄にあって蔵屋の非を叫び続けたが、蔵屋の死におい黒白 (こくびゃく) をつける術 (すべ) を失ない、宝暦7年 (1757) 7月26日神在居において打首の刑に処せられた。 この時突如暴風雨となり荒れに荒れたので、これを世に「善之進時化 (しけ) 」と呼んで善之進の怨霊のなせる業 (わざ) として恐れられた。 その後藩庁では国産方を廃止する処置をとったが、それ以上に彼の義に倒れた精神は郷土に生きて明治維新の志士を輩出し、回天の事業をなしとげたのである。 善之進ときに49歳であった。 昭和60年10月29日 中平善之進銅像建立期成同盟会 と書かれた説明板があります。
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