江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている


ジョン万次郎像 足摺岬


■ジョン万次郎像 足摺岬
中浜万次郎 (ジョン・万次郎 1827.1.1−1898.11.12)。近代日本初の国際人。中ノ浜出身。1841年出魚中に遭難するが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号のウイリアム・H・ホイットフィールド船長に助けられ、船長の生地フェアヘーブンで学校教育をうけるとともに見聞を広める。1851年帰国後、その国際知識をかわれて幕府直参となり、1860年に遣米使節の一員に加えられるなど、開国に向けて大役を果たす。そして、1898年71歳の生涯を閉じるが、広い視野に立ち、日米交流の礎を築いた万次郎の功績は、国際化時代の今日まかまか意義深いものとなっている。また、土佐清水市は1987年12月、万次郎の縁でマサチューセッツ州フェアヘーブン、ニューベットフォードと姉妹都市を結び友好交流を深めている。と碑脇の説明板に書かれています。
碑台座の説明板には次のように刻まれています。
■中浜万次郎
中浜万次郎は、鎖国から開国にゆらぐ激動期の日本歴史のかげで大きな役割をはたし、ついで興つた明治文化に著しい貢献ほした一人である。
万次郎は、この足摺岬にほど近い中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれ、14歳のとき出漁中、嵐にあい遥か南方の無人島、鳥島に吹き流されたが、半年ののち運よく通りかかつたアメリカの捕鯨船 john Howland号に救助された。船長 William H.Whirfieldは、万次郎少年の人柄を深く愛して本国につれかえり、3年間正規の学校教育をさずけた。万次郎は期せずしてアメリカにおける日本人留学生1号となった。彼は10年におよぶ国外生活中 john Mung と呼ばれ英語、航海術、測量術、捕鯨術等を習得し、二度に亘って七つの海を周航した。
しかし万次郎は既に24歳の青年となっており、祖国とそこにのこしてきた母親を忘れがたく、意を決して鎖国令下の日本に帰ってきた。
とき1851年2月、かの黒船の来航にさきだつこと2年であった。このような時機もさいわいして、彼は罪にとらわれなかったぱかりか、苗字帯刀をゆるされ幕府の直参にとりたてられた。
これより中浜万次郎は外国事情の講話やアメリカ航海術書とか公文書の翻訳、英語教授等で多忙な日々をおくることになった。洋式船の操縦や捕鯨にも長じていたので、実地の指導にもあたった。日本人による初の太平洋横断、臨海丸の成功のかげには彼のすぐれた航海術が大きな力となっていた。帰国に際して書籍、写真機、ミシン等ほ持ち帰ったが、江戸で初めて写真の撮影を行ったのは万次郎だといわれている。
明治2年には東京大学の前身である開成学校の教授に任ぜられた。44歳のとき、すこしく健康をそこねて公的な活動からしりぞき、数奇な運命の生涯を71歳で閉じている。1968.7.11 と刻まれています。



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