四国出身者で最初に内閣総理大臣を勤めた濱口雄幸


ライオン宰相 浜口雄幸 像 (五色台)


■ライオン宰相 浜口雄幸 (五色台)
政治に清き流れを重ねて今願う
四国出身者で最初に内閣総理大臣を勤められた濱口雄幸先生は、高知市五台山唐谷 (現在) の水口胤平三男として明治3年4月1日誕生した。
五台山小学校 (現) 県立高知中学校 (旧制) 第三高等学校 (旧制) 続いて東京帝国大学政治学科 (旧制) に進学、安芸郡田野村の濱口夏子と結婚、明治28年優等で卒業し直ちに大蔵省入省エリートコースを歩みはじめた。
山形県収税課長を振り出しに若き官僚の活躍が始まったが上司と衝突、一歩も譲らない異骨相ぶりが嫌われたのか以後地方を転々と回ることになる。そして名古屋、松山、熊本と勤務し苦労を重ねたむえ東京税務管理局長として中央に戻り、37歳にとして外局ながら専売局長の要職に就く。
その頃後藤新平伯は先生の人物を見込み次官就任を懇請するも固辞、しかし、三顧の知遇に感じ次官就任を応諾ついに政治家の道を歩み始める。
45歳で高知県より衆議院議員に初当選し、大物政治家としての片鱗を表し始めた時政変により辞職、そのため苦節10年の苦酸をなめることになるがその間も黙々として党務を纒め努力したことが一回大きな政治家としての基を作る。>BR>そして天は人を見捨てず護憲三派加藤高朗内閣で大蔵大臣、つついて若槻内閣でも内務大臣を勤める。先生の権謀術を好まず正々堂々の政治手法は国民の信頼を受け、立憲政党総裁に推挙され昭和4年ついに内閣総理大臣に就任することとなる。
先生は人となり謹厳実位二つして7清廉潔白微塵の私心なく、政治は国民の最高道徳との理念を身を以って実践され範を示された不世出の大政治家で、特に国民経済の立て直しと軍縮に力を注いだ。しかし世界恐慌は経済政策遂行の壁となり、軍縮は軍部の怨嗟となって昭和5年東京駅頭で凶弾に倒れ、日本は泥沼への道を転げ落ちていった。
いま政治は岐路に立っている。二十一世紀を迎えるこの時、ライオン宰首濱口雄幸先生和敬仰する有志あい集いこの銅像を建立、その偉業を永遠に顕彰してやまない。
平成12(2000年) 3月
濱口雄幸先生銅像建立の会 と書かれた碑文が建てられています。



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