第71代御三條天皇延久3年(西暦1221年)当時の肥後国司菊池則隆公が西国鎮護、海上安全の守護神として奉斉


肥後藩主細川家の守護神 住吉神社


■住吉神社
御祭神 底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命・神功皇后 相模祭神四柱
由緒 沿革 第71代御三條天皇延久3年(西暦1221年)当時の肥後国司菊池則隆公が西国鎮護、海上安全の守護神として、天皇の勅許を得て摂津大阪の住吉大社の御分霊を親奉し海路を経て、当時海上の〇島であった。
此の小島に奉斉したといわれる。
以後菊池家隆昌の四百年の間は、盛大な祭典が行われたそうだが、世の変遷と共に菊池家が衰えた為、神社も、また、苦しい時代もあった。更に加えて慶長年間宇土城主小西行長公の暴挙の為、当時の社殿及宝物等一切焼失したと伝えられている。
その為、後の50年間〇の岩崎山に仮社殿を建て祭典をしていた。
時を経て世は徳川幕府となり肥後藩主細川忠利公が島原の乱に出陣わ命ぜられた際、当神社に戦勝祈願されたところ抜群の功績を遂げられたので盛大な奉賽祭が行われた。これから藩主細川家の守護神と仰がれた。それから細川綱利公が寛文13年神社の境内、小島を起点として堤防を築き、笠岩古田を干拓し、同時に現在の社殿を再建された。
肥後三大社と尊敬され、細川家代々盛大に祭典が行われた。
更に享保9年(西暦1724年)細川宣紀公には神徳奉賽と有明海の海上安全のため、社頭に、高い燈籠(灯台)を建設するなど、非常に崇敬が篤く、当神社の大祭には藩主が参拝され、神社及高燈籠の経費は藩金で賄われてきた
然るに明治初年、廃藩置県の政令に依り、神社その他経費に変化があり、明治41年に県社に列し、県より献幣することことになり、境内地も又汐干狩は最適地として賑ってきた。現在では宇土市のあじさい公園又日本最古の灯台として整備されている。
更に全国有数海苔の生産魚場にあたる有明海を英国人ドゥルー女史の記念碑が全国の有志によって昭和38年建立され、神社と海苔生産者と結ばれ参拝者も多い。
尚毎年4月14日にドゥリー女史記念碑感謝祭が行われている。
平成9年5月吉日と書かれています。一部不明文字は〇で表示しました。


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