国司の館跡が、現在の「紀貫之邸跡」と称されるのは、歴代国司のうち、紀貫之が抜きんでて名の高かった故である。


紀貫之 高知の足跡


■国司館跡 (紀貫之邸跡)
奈良天平の時代から比江の地に土佐の国庁が置かれた。貫之は延長8年国司として来任。この地に居住した。地名を内裏 (ダイリ) という。
承平4年任満ちて京都に帰る時の船旅日記「土佐日記」は特に名高く、歌人として第一人者であると共に、国司としても極めて優れた人々に敬慕せられた。
ここに建つ碑は天明5年 (寛政元年竣工) のものと大正9年及び平成元年建立のものがあり、何れも後人が紀氏の徳を慕いその業績を讃えたもので、また俳人高浜虚子の句碑もある。と説明板に書かれています。
また、碑文と題する説明板には次のような説明文があります。
麝香祗候陸軍歩兵少佐三位勲三等功五級侯爵 山内豊景 題
はるかなき道にのみ名をとゝむるこそいとくちをしき わさならめ。
此君土佐の守たりし時、寓わたくしなかりしかは、そのいこい給ひし所をさへ後の世らもしたいものし侍るとこそ聞えける。かくてこそ 花さへ実さえ、とことはに、そのかくはしさをのこすとこそいふへけれ。近き世の守なる君、こゝに石ふみたてゝ千とせ萬代にも伝へてんとはかり給ひし、くはしきことはかきつくしてふみにゆつりてなん。
文化6年弥生 右近衛少将 源 定信しると侍りぬ 大正7年歳暮 御歌所寄人 大江正臣 筆とりぬ
と書かれています。



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