■楊貴妃伝説 長門市の向津具に二尊院という真言宗の古いお寺があります。そのお寺に、楊貴妃のお墓と呼ばれる五輪塔があります。この楊貴妃らまつわる伝説が、いにえから累々と語り継がれてきました。 いまから1200年以上の昔のことです。海の向こうかの国、唐 (今の中国) に、玄宗という皇帝がいました。そのお妃が楊貴妃です。楊貴妃は、たいそう美しく硬い人でした。そのうえ、歌舞音曲も上手で、二人はとても幸せに暮らしていました。 ところが、唐の国の中で反乱が起こり、楊貴妃は殺されることになりました。玄宗皇帝は、嘆き悲しみました。玄宗の悲しみがあまりにも深いので、陳玄礼という兵士が、楊貴妃を仏殿の中でしめ殺したと見せかけて、逃してあげることにしました。家来に命じて空艫船を造らせ、それを楊貴妃を乗せ、数日分の食糧を入れて川に流しました。その小舟が何日も何日もたって、向津具半島の唐渡口に流れ着きました。けれども、楊貴妃は間もなく死んでしまいました。里人たちは、大変気の毒に思い、久津にある天請寺の境内に、丁寧に葬りました。 一方、玄宗皇帝は、楊貴妃のことをひと時も忘れることができませんでした。皇帝が眠っていると、夢枕に何度も楊貴妃が現れ、「わたしは、日本の国に流れついて、死んでしまいました。自分を弔ってくれる人が誰もいません。それで、成仏できなくて困っています。もし、わたしを憐れに思いなら、早く供養してください。」とお願いしたのでした。 このことを知った皇帝は、大変不憫に思い、自分の大切にしていた釈迦如来と阿弥陀如来の二尊仏を家来の白馬将軍陳安に持たせ、日本に送りました。ところが、陳安が日本に着いてみると、楊貴妃がどこの浦に流れ着き、何というお寺にお墓があるのか、さっぱり分かりません。それで仕方なく、京都のお寺へ仏像をあげて帰りました。 その後、楊貴妃のお墓が長門国の天請寺にあるということが分かったので、釈迦・阿弥陀の二尊仏を天請寺へ移すことになりました。ところが、京都のお寺では大変ご利益のある仏像なのでむ、どうか残してもらうよう朝廷にお願いしました。そこで仏像彫刻の名人に、そっくりな二尊仏を作らせ、京都にお寺と長門の天請寺で一体ず分けたということです。このとき、天請寺は、朝廷から本尊が二体あるので、新たな二尊院というお寺の名前を賜って、名乗るようになりました。二尊仏は、寺伝によると阿弥陀仏が日本で作られたもの、釈迦像が中国から送られたものといわれています。 また、二尊院の境内にある五輪塔は、楊貴妃のお墓と呼ばれ、いつの頃からか、このお墓にお参りすれば、安産。子宝・えんむすびのご利益があり、心身美麗な子が生まれると信じられるようになりました。それで、日本各地から、このお墓を訪れたり、重要文化財の二尊仏を拝んでいく人が断ちません。と配布されているパンフレットに書かれています。 |