「桜三里を夜で越す時にゃ親なゃ是非ない妻恋し」と唄って交通の難所と言われた。 桜三里


桜三里 (中山越) 案内図


■桜三里 (中山越) 案内図
桜三里のゆらい
「桜三里を夜で越す時にゃ親なゃ是非ない妻恋し」
と唄って交通の難所と言われた。
中山越の起源はわからないが歴史は古いであろう。中山越が一般的に必要性で増したのは鎌倉以後であろう。江戸期に入ると松山藩領と道前と道後を結ぶ道として必要性がふえた。金毘羅参り、お山参り(石鎚) が盛んになり商人の往来がふえてくると一層必要がふえてきた。中山越は川内村松瀬川より 小鳥越 - 大鳥越 - 三軒屋 - 七曲 - 大桧皮峠(おおひわだとうげ) - 札場 - 小峠 - 田桑 - 千原 (ちはら・丹原町) - 上落合 - 笹ヶ峠 - 宝ケ口 (ほち) - 来見 (くるみ) までの間、中山川沿いを通って二つの平野を結ぶ幹線でもあった。藩でも力を入れた道であった、 「田桑の鞘橋公儀御普請」 とわれ屋根に手すりのついた立派な橋がかれられた事でもわかる。貞享四年(1687)松山藩士矢野五郎右衛門 (源太) は八四〇本の桜の木を植えた、崩壊を防ぐために桜がよいといわれ、藩の囚人を酷使して植えたのだという、以来桜は美しく 「桜三里」 とよばれるようになった。
また一説には、平家の残党樫原源太季秋は、土地の娘お初と懇になり百姓姿に身をやつし、平家の再興を願って中山川添の地に桜を植えたという。
幸福な二人の間に男の子が生まれたがお初は産後の日立が悪く、最愛の夫と子供を残して亡くなった号泣、動哭、悲哀は憤怒にかわり桜に向かって、 「汝すべての欲を去って散るべきに散れ決して実を結ぶことなかり」 といい、桜の木に 「桜三里は源太の仕置き花は咲くとも実はなるな」 と書き残して愛児もろ最期を遂げたという。二つの哀活は共に旅情をさそう。
諸国道法ができ城下町を中心に一里毎に道標が建てられ、木から石標に代えられたのが元文五年(1740)今に残っている 「松山札の辻より0里」 の道標はこれである。金毘羅大門へ00里も目につく道標である。難所であった事は道中地蔵さんが多いことでわかる。旅の安全を神仏に頼った名残である。
新しく国道ができ旧街道はさびれて通過しぬくい所もあるが、中山越時代の道はほとんど原形をとどめて懐かしい、今や桜三里は建設省や地元有志で国道に桜が見事に管理され旅情を慰めている。
平成三年三月吉日

と記されてすます。



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