■旧明倫館跡 ここで松陰が教育した間は1年であり、実家の幽囚室時代を通算しても2年半に過ぎません。短い期間に、この粗末な教室から若い松下村塾グループが育ち、安政の大獄で刑死した師の志を継いで尊皇倒幕運動に挺身し明治維新の原動力となった。
同志の主な者は激動期に元んで行ったが、生き残った者は維新政府の中枢に立って新しい日本を指導することとなった。 と書かれた説明板があります。 また、別の説明板には、松下村塾は、木造平屋建瓦葺の小屋で、当初からあった8畳の1室と、後に塾生達との労力によって増築した10畳半の部分からなっている。 初めに吉田松陰の叔父玉木文之進がここからほど遠くない自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けていた。ついで外叔父久保五郎左衛門がその名を継承し、子弟の教育にあたった。 安政4年 (1857) 11月5日、28歳の松陰がこれを継ぎ、幽囚室からここに移り講義を行った。翌安政5年 (1858) 11月29日までの1年半塾生達と過ごした場所である。 松下村塾では、身分にとらわれずに集まった若者達を、強い志と誇りを持って行動する日本人を育てた。と書かれています。
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