周防国大島郡和田村 (現在の周防大島町) の医者の家に生まれ漢方医学を学んだ


高杉晋作旧居


■高杉晋作l略伝
名は春風、字は暢夫、晋作は通称でありますが、最も広く知られています。また谷梅之助、谷潜蔵の変名もあり、東行、西海一狂生、東狂生などと号していました。
天保10年 (1839) 8月20日萩藩士高杉小忠太、室道子 (大西氏の出) の長男ととしてここ、萩菊屋横丁の宅で生まれのした。幼少の頃、私塾に学を習い、やや長じて明倫館に文武を学び、また、松下村塾に入り、松陰の指導を受けました。
文久元年 (1861) 藩主世子の小姓役に抜擢さられ翌2年、幕使に随行して上海に渡航する機会に恵まれて海外諸情勢をつかみ帰朝後攘夷の急先鋒として活躍しました。
文久3年、馬関の外国船攻撃にあたり自ら奇兵隊を組織し、同隊総監を命ぜられました。奇兵隊は、日本では、はじめての士農工商を問わない国民的軍隊で、後これにならうもの続出して長州藩の反幕府勢力軍事的基盤として明治維新戦争に大きな働きをしました。いで一時脱藩し罪をえい野際獄に入りましたが元治元年の四国連合艦隊の馬関来襲にあたり許されて再起用され、講和条約の正使となって堂々と交渉して国土の危急を救いました。
禁門の変後、藩首脳は俗論党により占められたため、晋作は九州に亡命しましたが、時至ってふたたび奇兵隊を指揮し、長州巧山寺に軍を起こし、疾風の勢いで諸地に転戦し、俗論党を一掃いたしました。
第二回長州征伐を前に薩長同盟に尽力し慶応2年第二回征長軍を迎えて、全藩を指揮し、みずからは小倉口を攻めて、縦横の戦略を駆使して連勝しましたが、翌3年4月14日、享年29歳で赤馬関に病死し、下関市吉田清水に葬られました。
明治24年生前の功労に対して正四位を贈られました。
■旧居について
この旧宅は、家禄二百石を受けていた、父 高杉小忠太宅で、現存する当時の建物は座敷 (六畳 床間付) 月の間 (六畳) 居間 (六畳、四、五畳) 小室 (三畳) のほかに玄関、台所がありまする
土蔵、納屋もありましたが、現存しておりません。庭園に鎮守、裏庭には井戸がそのまま残っています。

と書かれた説明板があります。



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