郡司家は、もと塚本と名乗り、江戸時代前期に、大砲鋳造の技術により長州藩に召し抱えられた郡司讃岐を中興の祖


郡司鋳造所


■郡司鋳造所
郡司家は、もと塚本と名乗り、江戸時代前期に、大砲鋳造の技術により長州藩に召し抱えられた郡司讃岐を中興の祖とします。その子孫は八家に分かれ、それぞれ長州藩において砲術師や鋳物師として活躍しました。なかでも讃岐の三男喜兵衛 (信安) は、讃岐の開いた萩松本の細工場を受けつぎました。これが、現在、郡司鋳造所跡と呼ばれる鋳物工場のはじまりで、江戸時代を通じて、鎌・犂先などの生活用具、あるいは梵鐘から、長大な様式大砲にいたるまで、多様な銅・鉄製品を鋳造しました。
■幕末萩の様式大砲づくり
幕府や先進的な諸藩は、アヘン戦争の情報が届くと、旧来の和式大砲では欧米列強の軍事力に対抗できないことをさとり、洋式大砲の導入を急ぎました。なかでも広い海岸線をもった長州藩は、すぐに郡司源之允を長崎の高島秋帆のもとに派遣して、洋式大砲を研究させました。そしてペリー来航後、幕府が諸藩に洋式大砲の採用を奨励すると、長州藩は郡司家の細工場を大砲鋳造所とし、郡司喜兵治を大砲鋳造掛に命じました。そのほか、郡司千左衛門や郡司武之助など、郡司家の人びとは幕末萩の洋式大砲づくりに大きく貢献しました。
■大砲鋳造想像復元図
長州藩が幕末期に、郡司鋳造所で大砲をつくっていたという事実は、早くから記録や伝承などによって知られていた。しかし、どのような方法で大砲をつくっていたかはわかっていなかった。平成12年度 (2000) に山口県埋蔵文化センターが行った発掘調査では、巨大な石組の大砲鋳造遺構が確認され、また実際に使われた鋳型も多数発見された。これにより、同所では、3つのこしき炉を用いた大がかりな鋳造を行っていたと考えられている。
■郡司家が鋳造した大砲のゆくえ
郡司家が鋳造した大砲は、現在、ほとんどが行方不明となっている。その最大の原因は下関戦争である。長州藩は文久3年 (1863) 、下関海峡を通過する外国船を三度にわたり砲撃。これに対して、英・仏・蘭・米の四国は連合艦隊を結成し、翌元治元年 (1864) 、長州藩の下関沿岸砲台を報復攻撃した。四国連合艦隊は各砲台を壊滅させ、大砲を戦利品として持ち帰るか、または破壊し去ったため、郡司家の大砲は欧米にもわずかな数しか残っていない。

と書かれた説明板があります。



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