■伊藤博文 松陰如く「利助亦進む、中々周旋家になりそうな。」 吉田松陰は、伊藤公の資質を「周旋家」つまり、「事をなすため立ち回る人物」と見ました。伊藤公は誰につくかを本能的に知っていたといわれます。伊藤公は高杉晋作、井上馨、木戸孝允 (桂小五郎) を尊敬し、共に行動しました。 後に初代内閣総理大臣になる伊藤公はそうした人間関係を背景に、着実に出世の階段を歩んでいったのです。 このように伊藤公を、松陰は出合った時からすでに見抜いていました。 ■伊藤公の生い立ち 天保12 (1841) 年9月2日に山口県熊毛郡束荷村 (現光市束荷) に生まれた伊藤博文公 (幼名・利助) は、9歳で萩に移るまで束荷で過ごしました。負けず嫌いで利発な少年利助のエピソードもいろいろと残っています。 生家跡の伊藤記念公園には、復元された生家、産湯の井戸や伊藤公が登って遊んだと伝えられる柿の木の二世などもあり、幼少期を偲ぶことができます。 ■維新志士の一人として 萩に移ってからは、松下村塾で高杉晋作や木戸孝允らと共に吉田松陰に学びました。 その後、倒幕運動に加わり、高杉晋作らと英国公館焼き討ちに参加しています。また、23歳の時に井上馨ら4人でイギリスに渡りロンドン大学で学びます。 「長州ファイブ」と呼ばれた彼らは。イギリスで日本の近代化のためのヒントを吸収しました。 留学から半年がたって、長州が外国船砲撃を企てていると知った伊藤公は砲撃を止めさせるため井上馨と共に帰国。砲撃を止めさせることはできませんでしたが、四国連合軍との講和会議通訳として出席しました。 ■維新志士の一人として 新しい国づくりに力を尽くす 明治維新後は、兵庫県知事、法制局長官、参事院議長など、明治政府の要職を歴任し、明治18年、内閣制度が創設されると、初代内閣総理大臣に就任し、計4回その職を務めました。 その後も枢密院議長として大日本帝国憲法の制定に関わり、近代国家の礎を築きあげる重要な役割を果たしました。また、すぐれた外交手腕を発揮してアジアにおける日本の地位の向上に力を尽くしました。 そして、明治42年、枢密院議長に任じられ、視察に赴いていたハルビン駅 (現中国) で狙撃された伊藤公は、69年の生涯を閉じました。 年齢については数え年で表記と、伊藤博文公資料館のはパンフレットに書かれています。
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