|
■青木周弼旧居 指定説明 この建物は明治以降、郷土史家安藤紀一の所有となり、昭和53年に安藤家より萩市が購入したものです。 文化財としての指定は、昭和42年 (1967) 1月10日に指定された国指定史跡「萩城下町」の一部であり、「青木周弼旧宅」という単独指定ではありません。しかし建物時代としては改造が少なく、当時の姿をよく残しています。 ■青木周弼旧居について 青木周弼は幕末当時、日本屈指の蘭学者でした。彼のもとには全国から学生が多く集まるようになったため屋敷地を安政6年 (1859) 頃、現在の場所に移転しました。以前住んでいた背中合わせの土地には弟の研蔵が住み、学生たちが寄宿していました。 この建物は、江戸屋横町に面した表門・仲間部屋・主屋と土蔵からなります。 主屋は来客用の部分と内向き (日常生活の場) とに分かれています。玄関からまっすぐ繋がる南向きの8畳の座敷は来客用です。座敷の北側6畳の間は、家の主人の内向きの座敷です。 さらに北側には台所もあります。また、西側には便所がありますが元々は別棟だったと考えられます。 仲間部屋は青木家の家来が住んでいたと考えられます。3畳
と4畳半の2室があり、これに勝手が付いています。 土蔵の床下から平成2年 (1990) に、約1200枚の1分銀が発見されました。この銀貨の包みには周弼の弟である研蔵の署名「青研」があったので、現在青木家の子孫の方が所有されています。 ■青木周弼 周防国大島郡和田村 (現在の周防大島町) の医者の家に生まれ漢方医学を学んだ。江戸でオランダ医学を学んだ後、長崎に遊学。長崎での評判を聞きつけた萩藩主毛利敬親によって召し上げられ、天保11年 (1840) 、医学館の創設により教官に任命された。医学書の翻訳等、医学教育に尽力し、多数の子弟を育てるとともに西洋兵学を紹介した。 ■青木研蔵 周弼の実弟で、後の青木家を継ぐ。兄と共に医学を学び、藩の命により長崎でシーボルト等に学び、最新の医学を萩に伝えた。種痘の技術を初めて藩にもちかえり、天然痘を予防することに成功した。藩主毛利敬親の側医をつとめ、明治2年 (1869) に明治天皇の大典医に任命された。 ■青木周蔵 厚狭郡埴生村 (現在の山陽小野田市) の医者の家に生まれる。藩校明明倫館で才能を見いだされ研蔵の養子となる。長崎で医学を学んだ後、明治元年 (1868) にドイツに留学し、政治、経済を学ぶ。明治6年 (1873) 外務一等書記官を振出しに、翌年最初の駐独公使となる。山縣有朋、松方正義両内閣では外務大臣として条約改正にあたった。
と書かれた説明板があります。
|