萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と三田尻(防府市)の御舟倉を結ぶ、参勤交代の道として整備された街道です。


三田尻御舟倉跡 萩住環


■ 国指定史跡 「三田尻御舟倉跡」 関連遺跡 萩住環
関ヶ原の戦(1600年)後、周防。長門の二か国に封じ込められた毛利輝元は、参勤交代や海賊、平時の開運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、現在の下松市に設けました。しかし、萩城との交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611)に三田尻に移しました。城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ「萩住環」の終点である三田尻御茶屋(英雲荘)からおよそ五百メートルの位置にあります。江戸時代中期ごろまでの参勤交代はここから船出していたのです。
御舟倉には、藩主の御座船や軍船が常設されていただけではなく、船の建造や修理が出来る設備も備えていました。また、周辺には水軍の将校や船頭・船大工などの関係者の住宅地の町割りが計画的になされ、三田尻は藩主出入りの表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展していました。
しかし、元禄元年(1688)以降、御舟倉周辺の開作(干拓)が次々と完成すると、次第に陸地に囲まれ、一本の水路が海に通じる唯一のものとなりました。
明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が埋め立てられ、通堀とこれに通じる水路の一部がその名残をとどめています。
平成11年1月 山口県教育委員会 防府市教育委員会 と書かれた説明板があります。



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