高杉晋作は有備館で柳生新陰流、内藤作兵衛に連日のように剣術稽古をつけてもらいました


有備館 (ゆうびかん) と高杉晋作


■有備館 (ゆうびかん)
有備館は剣術と槍術の稽古場で、藩校明倫館内に建築された。木造一重入母屋造りで桟瓦葺きで平屋建て、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物である。内部の半分は板間39畳を剣術場、南半分は土間54畳を槍術場とし、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室がある。ここに藩主の練武のほか、他国からの剣槍術の修行者とり試合場、すなわち「他国修行者引請剣槍術場」でもあった。
■坂本龍馬と萩
文久2年 (1862) 1月14日、坂本龍馬は土佐勤王党首領武市瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるため萩を訪れた。
龍馬は萩に6日間滞在する。その年の3月24日、龍馬は突然土佐を脱藩。
そして薩長同盟、大政奉還など、歴史に残る偉業を成し遂げてゆく。
一体、萩で何があったというのか。
幕末欧米列強はアジア各地を植民地とし、日本の独立もあやぶまれていた。久坂玄瑞は長州藩を訪ねた龍馬に、師・吉田松陰の草莽崛起論を説く。日本を変革するのは草の根に隠れといる自分たちで、そのためなら藩は滅んでも構わないという凄まじい決意であった。そして龍馬はこの直後、土佐を脱藩してしまった。
萩には今も、人々の魂を奮い立たせる何かがある。
■萩藩校明倫館 有備館
西日本一の教育施設と称せられた藩校有鄰館は現在も残る、明倫館の槍剣道場「有備館」。藩士の練武のほか、他国からの修行者の試合場ともなり、龍馬は、久坂ら松下村塾生とワラ束を斬ったり、少年剣士と試合したといわれている。
■高杉晋作
高杉晋作は有備館で柳生新陰流、内藤作兵衛に連日のように剣術稽古をつけてもらいました。文久2年 (1862) 土佐勤王党の武市半平太の手紙を久坂玄瑞に届けるため萩を訪ねた坂本龍馬もここで剣を振るったと言われています。
と書かれた説明板等があります。



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