■東行庵 高杉晋作立像 墓碑銘 元治元年 (1864)12月、長州藩の倒幕路線を確定された功山寺挙兵決行前、高杉晋作が大庭伝七 (勤王商人白石正一郎の音弟) にあてた手紙は、平信を装っているが、あきらかな遺言の文言を見せ、墓碑銘も指定している。 死しても恐れながら天満宮の如く相成り、赤間関の鎮守と相成り候志に御座候。 (略) 別紙詞作御覧頼み奉り候 表 故喜奇兵隊開関総監高杉晋作 西海一狂生東幾墓 遊撃将軍谷梅之助也 裏 毛利家恩古臣高杉某嫡子也 この墓碑名は採用されず現在の墓標となってる。百五十忌 (平成28年) にあたり、生涯の事情をみずから総括した見事な自画像ともいうべきまぼろしの墓碑銘を刻んで建立した。 ■東行庵 高杉晋作立像 高杉晋作遺言墓碑銘の碑 元治元年 (1864) 12月、功山寺に決起する直前、高杉晋作は白石正一郎の弟大庭伝七 (長府城下町大年寄) にあてて手紙を書いている。平信を装ったいるが、まさしく遺言の内容を整え、自分の死後に触れた一連の事項の最後に墓碑銘ほ指定している。 墓碑銘の現代語意訳 奇兵隊はわが国近代的軍事組織の祖型をなすものとして歴史にのこるであろう。僕はそまーの創始者であり初代総督としての栄誉にあずかる者だ。「西海一狂生」とは孟子に学ぶ吉田松陰先生から授けられた狂の思想を実践する者のみずからへの命名である。僕や久坂玄瑞をはじめとする松下村塾生一同の行動力、突破力は、松陰先生のと薫陶で醸成された詩的狂気に発するのだ。 「遊撃将軍」とは何か。遊撃手はあらかじめ当面する嫡を想定せず、自在の運動線にあって、にわから出現する敵を攻撃する戦闘者のことである。僕は群れの離れで待機する遊撃隊長であった。喜平太の結成、功山寺決起、四境幕長戦争における僕の役目はいずれも遊撃による殊勲であったことを僭称してはかがらず、それが詩人の夢を捨て、戦闘者となって果たして僕の仕事のすべてである。最後に裏面「毛利家恩古高木某嫡子」とは何を意味するか。誇り高い武士意識こそが、僕の行動規範であったことを暗揄する一行を添えたのである。「古川馨」と書かれた説明板があります。
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