慶応3年4月14日、下関で結核の病疫、騎兵隊陣営近くの吉田清水山に埋葬されました。27年と8カ月の短い生涯


国指定記念物 (史跡) 高杉晋作墓


■高杉晋作の墓
高杉晋作 (号 東行) は天保10年 (1839) 二百石の長州藩士の長男として萩に生まれた。18歳にして生涯の師吉田松陰の松下村塾に入門したのを契機に希代の革命戦略家として頭角を現す。文久3年 (1863) 長州藩が外国艦船と砲火を交えるに及んで奇兵隊を組織自ら初代総督となる。以後各地に倒幕戦を指揮し明治維新のさきがけとなったが慶応3年 (1867) 4月13日 (命日は14日) 下関において結核のためその雷電風雨の如き27歳8か月の生涯を閉じた。
遺言によりここ奇兵隊本拠地吉田清水山に土葬される。と書かれた説明板があります。
■国指定記念物 (史跡) 高杉晋作墓
高杉晋作 (号・東行) は天保10年 (1838) 8月20日、長州藩士高杉小忠太 (家禄二百石) の長男として萩城下に生まれました。藩校明倫館に学ぶ傍ら、松下村塾で吉田松陰に師事して志操を養いました。文久二年 (1862) には幕府貿易視察団に加わり清国上海に渡り、ヨーロッパの半植民地と化した街を見て大変な衝撃を受けました。
文久3年6月、下関を外国艦から防御するため奇兵隊を結成。奇兵隊は武士以外でも「志」があれば入隊を許した画期的な軍隊でした。
元治元年 (1864) 8月には、四国連合艦隊の下関砲撃事件の戦後処理にあたり、また同年12月には長府巧山寺で挙兵し、藩論を倒幕路線に統一しました。さらに、下関開港・薩長同盟締結などを推進。慶応2年 (1866) には、騎兵隊などを指揮し、長州再征軍を小倉口に撃退しました。
慶応3年4月14日、下関で結核の病疫、騎兵隊陣営近くの吉田清水山に埋葬されました。27年と8カ月の短い生涯でした。山口県教育委員会、下関市教育委員会と書かれたら説明板があります。



♪ 。 . : * ・ ゚ ゚ ・ * : .        . : * ・ ゚ ゚ ・ * : . 。 ♪
1998-2018 itigoNet & StrawberryClub, internet cection Since 1998.12.20

当ホームページ内の画像およびイラストなど全ての内容につきまして無断転載・転用を固くお断りいたします。