■ 松陰神社 由緒書 明治維新 それは日本の歴史初って以来の最大な政治改革であった。 徳川三百年の幕藩体制を打倒し、封建日本から近代的統一国家への建設へと凄まじい闘争が初まった。攘夷から倒幕へ、王政復古へ、動乱の渦は全国には波及してゆく、その明治維新の誕生の地は毛利藩の萩、その中心人物は若い吉田松陰であった。 吉田松陰の略歴 天保元年(1830)8月4日萩藩士杉百合之介常道の二男として萩の東郊護国山団子巌に生まれた。名は炬方、通称は虎之助、大次郎、松次郎、寅次郎と度々改めた。号は松陰又は二十一回孟子として知られている。 数え年五歳で時藩の山鹿流兵法学者であった叔父吉田大助の養子となり、翌年叔父が死んだので家督を相続した。それによりのち家業大成のため勉学にはげんだ。 二十一才、平戸、長崎に遊学、西欧文化にふれ、大いに啓発される。 翌年、藩主の江戸出府に随行、当時随一の西洋学者佐久間象山の熟に学ぶ。阿片戦争の詳細を知り、西欧の東洋侵略、日本に及ぶの恐怖を痛感する。 同年、無断で東北地方を遊歴し、脱藩の罪にて、士籍、世禄を剥奪・閉居を命ぜられる。藩公から特に十年の遊学を許可されて、江戸に行き、再び、佐久間象山に学ぶ。国を救う為には、西洋の事情を知るにしかずと国法を冒して決死の密航を企てたが失敗、自首萩の野山獄につながれる。 そこで松陰は世にも不思議な囚人教育を始める。それは後の松下村塾の基礎となった。 藩の軽輩の子弟を中心に猛然な対人教育が始まった。門下生各自の可能性を引き出す独特な教育であった。後の思想の根底にあるものは、外夷に対する祖国愛であり、貧しい日本を、おくれている日本を強くしなければならないという富国強兵策であり、時勢への開眼であった。 松陰は世界の大勢をとき、日本の行く可き道を教えようとした。学問が現実と遊離しては存在しないし、あってはならないとといた。 その教育がその子弟を奮いおこさせた。日本の改造・改革へ日本維新へと突き進む。 学問から実践へ、その政治活動は安政の大獄への連座となり、江戸送り、小塚原で斬られた。行年僅か数え三十才。 日本をつくった偉人の多くは吉田松陰の門下生。高杉晋作、久坂玄端、吉田稔磨、前原一誠、伊藤博文、山形有朋、野村靖等有名である。と松陰神社境内にある吉田松陰歴史館で配布されているパンフレットに書かれています。
|