孝充は死を前にこの地にあった本宅山林などを地区民に与えて子弟育英の資とするように言い残しました。人々は大変感謝し、社を建てて孝充の霊を祭りました。


木戸公恩徳碑 (碑文) 木戸神社


■ 木戸公恩徳碑 (碑文) 木戸神社
内大臣従一位公爵三條実美篆額 木戸(孝充)公は臨終にあたり。吉敷郡糸米村にあたる旧居・山林を全て糸米の村民に寄付し、子弟の学費に充てるように遺言しました。嗣子正二郎君は、公の意志をうけて山口県令関口隆吉に寄託してこれを村民に与えました。糸米村の人たちはこの恩を忘れてはならないと、祠を建て毎年お祭りをし、その経緯を石に刻んで後の人たち知らせることにしました。
木戸公は明治新政府の重臣となり、国家の安泰を願っていましたが、明治10年西南戦争が起こるや国の将来を大変心配し、とても糸米村の村民を心配する暇などありませんでした。しかし、木戸公は人や物をいつくしむ心が大変深く、ふるさとの人々のことを片時も忘れるはずはありませんでした。公は臨終あたり後世のことを考え糸米の人たちのために学費を寄付したのです。これは郷里の人たちを心から愛したからでした。公は人や物を愛し慈しむことを国中の人たちに及ぼしました。だから日本中の人たちは皆公が人を愛し慈しむことわ国中の人たちに及ぼしました。だから日本中の人たちは皆公が人を愛し慈しむことを知ったのです。まして況や糸米村の人たちが公の親とくふれ、感謝するのは当然のことてす。
さてね糸米の地は鴻峰の南側に位置し田野が南に開けた所です。土地は熟し、冬は温暖で樹木や竹が群生し、水は清く石を洗い、孤松は形よく野菊が香っています。この風景きかって公の目わ楽しませたところです。しかし、公はひとたび国政にたずさわれば、毅然として対処しました。
糸米の村民は深く公をしのび、その恩恵をうけたのです。そのため、詩歌をつくって公をまつりました。その言葉は、子孫をえしえ、老父を愛し、酒を酌み、飯を盛る、ほずかな物ではあるがその風土は素晴らしく、これをはぐくむ山や水には公がいるようです。糸米の子孫の繁栄はまさに公のもたらしたものです。と碑の脇の説明板に書かれています



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