■城下町 萩 夏みかんの花 城下町の白壁や武家屋敷の土塀からのぞく夏みかんは、その時代の名残とともに萩の情緒を感じさせる風景です。5月上旬〜中旬頃には、白い小さな花が咲き、まちじゅうが甘い香りに包まれます。 城下町「萩」の夏みかんの花のかおりは、環境省選定 「かおり風景100選」 (平成13年11月認定)に山口県で唯一選ばれています。 写真のみかんの花と実は旧田中邸の「みかん」の木です。 配布されているパンフレットには、夏みかんを次のように説明しています。 ■橙園之記 夏みかんの栽培を広めた小幡高政が、この場所に夏みかん栽培発祥の地であることを後世に伝えるため、明治23年 (1890) 建てたものです。石碑には、次のようなことが記されています。 「夏みかんの畠は、明治9年 (1876) にこの場所に初めて開かれました。その後、繁殖して14年後の今では、この畠の夏みかんとは500本余りになりました。最初は、私 (小幡高政) が率先して夏みかん栽培を推薦しましたが、その当時、萩で夏みかん栽培をしている者はほとんどいませんでした。人々は、私が夏みかんを栽培するのを、疑いの目でみたり、あざ笑ったりしていました。しかし、今日、夏みかんの栽培が盛んになるにつれ、そのような人も、少しの空き地があれば、夏みかんを栽培するようになりました。こうして、夏みかんは萩の名産となり、全国の多くの人々に好まれ、評判の果実となりました。と説明されています。 ■小幡高政略歴 小幡高政は文化14年 (1817) 吉敷郡但富村 (現、山口市平川) に生まれました。名は彦七・蔵人・図書・号は并山。父は萩藩士、祖式半助、高政はその2男で、のち同藩士小幡小平太の養子となりました。郡奉行などの要職を歴任し、維新後は小倉県権令を勤め、明治9年 (1867) 萩に帰郷。生活に苦しむ士族救済のため、夏みかんの栽培を推奨し、士族授産に尽くしました。萩の地を日本最初の夏みかん集団栽培地とし、のち萩の主要産業とした
明治初期の産業功労者です。明治39年 (1906) 7月27日没。享年90歳。 この小幡高政の業績を広く知らしめ、また、萩の代名詞とも言える夏みかんを身近に感じられる公園として別邸北側にかんきつ公園を公開しています。夏みかん約100本をはじめとする柑橘類10種、約370本が植えられています。とパンフレットに書かれています。 ■旧田中邸 敷地は藩政時代の毛利筑前下屋敷 (石高約16.000石) に当ります。明治以降は萩の夏みかんの栽培を広めた小幡高政により、現在の主要建物の骨格が完成されたと考えられています。その後大正後半からは総理大臣を務めた田中義一の所有となり主屋の増改築が行われ、文部大臣などを歴任した田中龍夫の没後、遺族により平成10年5月23日付けで萩市が土地と建物の寄贈を受けたといいます。 ■重要伝統的建造物群保存地区 萩市平安古地区 選定地域は平安古のうち、橋本川に沿った東西約150m、南北約300mの範囲約4.00ヘクタールで、藩政期の地割をよく残しています。 藩政時代、武士のうち重臣の多くは三の丸である城内に住んでいましたが、平安古、江向、土原への開墾が進むに並行して数多くの武士が屋敷地を構えていきました。平安古には毛利一門の下屋敷をはじめ大身武士、中級武士の屋敷が建ち並んでいました。 この地区も明治時代以降主屋が取り壊され、土壁のみが藩政期の姿を残すところが多い中かで、旧田中邸の北側に位置する坪井九衛門旧宅は主屋のほか長屋門、土壁などを残しており当時の屋敷構えをうかがうことができます。
別途設定地
■鍵曲土塀の背後に広がる水辺の屋敷跡 平安古地区は、萩城下町の西側を流れる橋本川沿いに広がりかつての武家屋敷の密集する地域の中心部です。本丸などのあった城内からは少し離れているものの、川に面した美しい景観を求めて藩の重臣の下屋敷などが構えられていました。 地区の中心を貫く通りは、途中で二度、鍵状に折れ曲がり、その両側を土壁で囲まれているため見通しが利かず、通称「鍵曲」と呼ばれ、市民に親しまれています。 また、橋本川河口のこの一帯は、古くから景勝地として認識されていたようで、江戸時代の絵図なとにも描かれています。地区内には、この景観の借景に自らの屋敷に川の水を取り入れた池泉式庭園の一部や、庭園から直接に舟で川に出入りするための「舟入り」が遺されています。 しかし、堀内地区と同様、幕末に藩庁が山口に移されたことを契機にこれらの下屋敷も維持できなくなり、一帯は広大な屋敷跡と禄を失った武家の家臣が残されました。この状況を解決するため、萩藩士であった小幡高政が、自らの屋敷内 (旧毛利筑前守下屋敷) において夏みかんの商品栽培を試みて成功しました。その後、夏みかんの栽培は、堀内地区の屋敷跡などに広がり、近代の萩を支える一大産業にまで発展し、「土塀の夏みかん」の景観が生み出されました。 夏みかんの商品栽培発祥の地とも言えるこの屋敷跡は、その後、萩出身で陸軍大臣などを歴任し、昭和初期の内閣総理大臣となった田中義一が所得し、萩の別邸として整備し、萩での憩いの時間を楽しんだようです。 このように、水辺に開かれた地の利をいかし、江戸時代は重臣達の下屋敷などが置かれ、その後夏みかん畑に転用されながらも、この水辺空間が現在まで受け継がれ、鍵曲を中心に遺されている土塀や長屋門、主屋などの貴重な伝統的建造物と、それらと一体をなす庭園や松の巨木などが豊かな歴史的風致を保っています。 ■武家屋敷から夏みかんの畑へ 平安古から始まった夏みかんの栽培へ 江戸時代後期の様子を描いた萩滋城下町絵図には、武家の名前が記された大きな屋敷が並んでいます。名前の頭の方が屋敷の表側にあたります。 各屋敷は、この表の長屋門を構え、周囲は土塀で囲み、その中に主屋や土蔵、書院などの建物が建ち並んでいました。 幕末に藩庁が山口に移転すると、萩には主人を失った広大な屋敷跡と禄を失った士族が残されました。 この士族の救済のたる、萩藩士で政府の要職も務めた小幡高政は、萩に戻り、「耐久社」という組織を立ち上げ、毛利筑前守下屋敷の広大な土地を利用して、夏みかんの商品栽培に着手しました。当時は貴重であった夏みかんは、関西を中心に高値で取引され、武家屋敷跡を中心に萩一帯に夏みかん畑が広がり、近代萩の経済を支える一大産業にまで発展しました。 昭和の中期の都市計画図を見ても一面夏果実園のマークで埋め尽くされていることが窺えます。 このとき、武家屋敷跡の周囲に残された土塀が、夏みかんの風除けとして維持され、土塀の失われた部分には屋敷内の建物の基礎石や庭石を積み上げた石積みが築かれました。こうして生まれた「土塀と夏みかん」は、萩の町並みを代表する景観として、全国に知れ渡るようになりました。
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