■ 佐々並市と御茶屋 佐々並市の成立は、十七世紀の半ばごろと思われる。萩往還の完成とともに宿場町、市の町(商店の並ぶ町)として栄え、駅が置かれていた。1845年頃の記録によると、市は次のようであった。総家数62軒、内15軒が商人、47軒が宿人夫馬持ちで、ともに農業に従事していた。佐々並市には、萩往還沿いの最も大きい施設の一つとしてお茶屋(藩主の旧泊施設)があった。慶長9年、毛利輝元が山口から萩城へ移るとき、旧佐々並使用学校(現佐々並農協木材部)の敷地内にあった長松寺の前身である長松庵で休息したといわれる。それにちなんでこの地に御茶屋が建てられたと伝えられている。御茶屋は67平方メートルの広さがあって、本館、御長屋門、御蔵、御供中腰掛、仮御馬建二か所、それに御番所があった。後年、往来の通行がひんぱんになると、宿泊施設として御客屋が設けられ、役場の隣りにあった木村作兵衛宅、井本弥八宅があてられた。 慶応元年1月15、16日の佐々並の戦では佐々並市が主戦場となり、多数の家屋焼失等大きな被害を受けた。 別の説明板 佐々並市 市集落 市集落は、佐々並川の南側に位置しており、貫船神社下から西に向かって延びている萩往還沿いに街並みが展開する上ノ町と、萩往還が直角に折れて北に向かって伸び、佐々並大橋に至る間に町並みが展開する中ノ町の二つの区域に分けられる。 江戸後期における防長二国の詳細な地誌である「防長風土注進案」中、弘化2年(1845)書き上げの佐々並の項には、市に45軒が存在した旨が記載されており、また慶長15年(1610)設立の「慶長検地帳」、寛永2年(1625)作成の「寛永検地帳」等にも同等の戸数が記載されている。 このことから、慶長9年(1604)に毛利輝元が萩に入府の折に佐々並で休息したことを契機に、藩主の宿泊・休息施設であめ御茶屋が土ノ町に整備された慶長11年(1606)頃に、佐々並用対岸の久年集落と同時に市集落の町並みが一挙設立したと考えられる。 江戸期を通じて萩往還の宿駅機能を果たしてはた佐々並市において、上ノ町は御茶屋及びその予備的施設である御客屋を有し、沿道の民家も農業を営む傍らで宿を供していたことから、宿泊の機能を担っていた。また、中ノ町は醤油や豆腐などの製造か行われ、各種の商売も営まれており、商業の機能を担っていた。 と説明板に書かれてます。
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