萩市悴坂と上長瀬のものはほぼ原形をとどめており、数すくない近世の交通関係遺跡として貴重である。


上長瀬一里塚 萩住環


■ 上長瀬一里塚
一里塚は、徳川幕府開設直後の慶長9年(1604)に江戸の日本橋を基点として、全国の主要街道にその築造を命じたのが始まりといわれる。
防長両国では、同年毛利輝元の萩築城により、城下、唐樋札場(萩市東田町)を基点として、主要道に一里(約4キロメートル)おきに設けられた。
萩往還には12基が設けられ、上長瀬一里塚は路傍の緩斜面に不整形な大小の岩石を集積して墳形をつくり、かっては半円形に近い整った形であったと思われる。旧記によると「縦三田尻船場七里、縦唐樋札場五里」と書いた塚木を立てていたが、元治元年(1864)、防長両国の一里塚を廃して常緑樹に改めた。そのため土台の部分も手入れの必要がなくなり多くは崩壊してしまったが、萩市悴坂と上長瀬のものはほぼ原形をとどめており、数すくない近世の交通関係遺跡として貴重である。
と説明板に書かれています。



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