松陰の盛んな意気は、やがて松下村塾における弟子の教育を実らせ、明治維新の原動力となった


明木橋の吉田松陰 萩住環


■ 明木橋の吉田松陰
藩政時代の明木橋は、ここより約1キロメートル上流にあった。幕末の志士吉田松陰は、伊豆の下田で国禁の密航を企てて失敗し、捕らわれの身となって萩に護送された。その最終日、安政元年(1854)10月24日、この明木橋を過ぎるにあたり次の詩を作った。
少年有所志 少年志すところあり、
題柱學馬卿 柱に題して馬卿を學ぶ、
今日かんよ返 今日かんよの返、
是吾ちゆう錦行 是れ吾ちゆう錦の行。
「中国前漢の人司馬相如が昇仙橋に太望実現の誓いを書いた故事にまねて、わたし松陰は少年のころこの明木橋において志を書いたことがある。そして今、檻に入れられて返されてきたが、故郷に錦を飾って帰る思いである。」
この松陰の盛んな意気は、やがて松下村塾における弟子の教育を実らせ、明治維新の原動力となったのである。
と説明板に書かれています。



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